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光厳天皇の元服と凶日意識

 先日11月26日は後醍醐天皇のお誕生日だったそうです。後醍醐天皇の誕生は正応元年11月2日で、これを西暦に直すと1288年11月26日にあたるわけです。後醍醐天皇の父は後宇多天皇で、当時分裂していた皇統では大覚寺統の系譜に連

なりまずが、御存知の通り鎌倉幕府は皇統分裂という事態に対して両統迭立という方法を施策しました。2つの皇統から交代に天皇を出す。というやり方です(実際には順不同に行われたが)。

 そういうわけで当時の朝廷では2つの皇統の儀礼を同時に行なっていたわけですが、今回は後醍醐天皇の治世下に行われた光厳天皇の元服に関して、その父、花園上皇の日記の中に元服の日取りの吉凶をあれこれ勘案している記事があるのでご紹介したいと思います。(右の画像は光厳天皇の肖像)    


御元服二十八日たるべし

 御元服と日の吉凶にまつわる記事は『花園天皇宸記』元徳元年12月別記8日条にあります。

「 十二日(中略)今日(賀茂)在實為御身固当番、参入之間、以(四条)隆蔭尋云、御元服延引可為廿八日、而如此大事、一向無儲日之条似無思慮、今月中於今者、無吉日哉之由相尋之所、申云、廿八日以前廿二日以降、都無吉日、廿九日辛亥無指難、但辛日於元服有憚、然而村上天皇元服辛亥日也、又主上(後醍醐天皇のこと)御元服有例、然而於春宮元服者、冷泉院應和之外無例、又件日厭日也、但於厭日者、天子用之吉、庶人用之凶云々、然者儲君可擬天子之上者、强非難歟云々、應和之例、可被避哉否可在時宣云々、仰云、厭日非大凶者有何事哉、應和之例、於坊中强非可避之、如立坊之例、以冷泉院多為佳例也、其上廿八日、若有子細者為用意也、正非可用之日、不可有子細歟之由仰之了」

 四条隆蔭が「御元服は28日になりました」という情報を伝え、28日となった理由を説明しているという訳です。


二十九日が凶日であるいくつかの理由

 では四条隆蔭が説明した、28日と決定した理由を分解したいと思います。日の吉凶が大きく関わっていますよ。まず、「一向儲

けの日無きの條、思慮無きに似たり、今月中今に於いては、吉日無きや」という花園上皇の意見に対して隆蔭は、「 二十八日以前、二十二日以降は吉日が無い。と答え、さしたる難がない二十九日にも、理由があって実行できない」と言っています。その理由こそが今回の主題でもありますが、以下の二点です。


1. 辛亥の日であること。

2. 厭日であること


という2つです

(右の画像は花園天皇宸記自筆本。宮内庁所蔵)



辛の日元服においては憚り有り

 29日を否定する1つめの理由として挙げられたのが、辛日であるということです。辛日


とは、十干十二支による紀日法の「 十干」で「 辛」にあたる日のことです。「 辛亥」とか「 辛酉」とか「 辛未」「 辛丑」などがそれですね。尚、公家や院宮家が日の干支などを確認するツールとして用いていたのは「具注暦」という朝廷公式の暦です。具注暦の説明は別記しますので省略しますが、具注暦の日毎の記事の表記方法を右に図示しましたのでご覧下さい。

 そして辛日に「元服を行うのは不適切だ」。という迷信があったようなのです。しかし、ここで隆蔭は村上天皇と後醍醐天皇の元服の日は辛日で、一応辛日に行なった先例はある事を示しつつも、春宮(皇太子)の元服に限って言えば冷泉院しか例がない。としています。どうやら春宮(皇太子)と天皇には元服と辛日の関係に若干の差があったようです。この辛日に元服が不適切という迷信は外の文献では今のところ確認できないので、今後外の例も調べたいと思っています。




厭日という暦注

 さて、29日がダメな理由、其の二として挙げられているのが「厭日」であることです。厭日(えんじつ)というのは具注暦に書かれた日の吉凶を判断する迷信的な暦注の一つですが、日本の暦の歴史の中でも具注暦にしか記載されなかったものです。

 インターネット上で公開されている「和曆」(http://www.wagoyomi.info)という過去の具注暦を再現できるWebサービスを使用し、29日の曆を再現すると確かに「厭日」に当っています。

 「厭日」は公家など臣下の者には凶日で、何をするにも良くないと信じられていました。ですがただ一つ例外があったのです。それは王(天皇)の場合。「厭」とは古代中国の「天帝の車」が由来しています。なので、天帝に擬される王が用いるのには吉とされたのです。

 話を戻すと、隆蔭は春宮(皇太子)は天皇のようなものなのだから厭日に行なったところで、殊更問題はないのではないかとしつつも結論はぼやかしています。


應和の例って何だ?

 ここで何回か出てきた「應和の例」とは何のことなのか。これは応和3年2月28日に行われた冷泉天皇(当時は憲平親王)の元服のことのようです。『日本紀略』に「廿八日皇太子元服」の記事が見えます。この日は確かに辛亥の日ですが、厭日では無いことから、「應和の例」では厭日は避けられたようです。


そして28日に御元服

 いろいろと揉めた光厳天皇の元服ですが、(この記事の後にも何度も日程調整の記事がある。) 結局12月28日に行われました。この御元服の儀の模様は「元徳二年東宮御元服記」に記録されており続群書類従第十一部で読むことができます。

 というわけで、春宮(皇太子)元服における日の吉凶意識の一端を『花園天皇宸記』から紹介しました。春宮元服において辛日及び厭日が意識的に避けられたことが伺えたかと思います。



参考文献

村田正志『史料纂集 花園天皇宸記』1986 続群書類従完成会

村田正志『和訳 花園天皇宸記』2003 続群書類従完成会

中村 璋八「暦林問答集本文とその校訂」『駒澤大學外国語部研究紀要 7』1978 駒沢大学

内田正男『暦と時の事典 日本の暦法と時法』1986 雄山閣  など。


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